和合一致



【連載】抗がん剤治療を選ばなかった父が亡くなるまで④捨てない希望


10月に入った辺りから父の体調は変わり始めます。


時々痛みが出るようになり、以前から処方されていたけれど手を付けることがなかった痛み止めの薬を服用するようになります。

病院からは2種類の痛み止めの薬を処方されていました。
軽い薬と強い薬の2種類です、そして、この時はまだ軽い薬だけを飲んでいました。

食欲も減り始めます。

白いごはんが食べにくいと、天津飯や焼き飯など味が付いているもの以外は食べなくなります。
嫌いなものにはあまり手を付けなくなるので、お野菜をほとんど食べなくなります。

母が工夫してサンドイッチに挟んでいました。そうすると食べます。

体力・気力が無くなっているのは食欲が落ちているからだと、例外ではなく父もそう考え、栄養ドリンクと「コンクレバン」を飲み始めます。

「コンクレバン」とは、レバーを加水分解した飲料で、アミノ酸+ビタミンB群の液体サプリメントだそう、これを近所の薬局で父が自分で買ってきました。
そして、後に全く固形のものを胃が受け付けなくなった時も、「俺にとってのステーキや。」と言って飲んでいました。

ハッキリ言って、全くおいしいと思えない味です。匂いもとてもキツイです。
元気で食欲旺盛だったころには、絶対に手を出さなかったもの。

“ちゃんと噛んで食べるものじゃないと栄養にならない、臓器に負担をかけるだけ”と言っても耳に入りません。父にとって"気付け薬"のような役目になっているようだったので、それ以上は何も言いませんでした。

仕事も、店先に座っているだけになります。
母の力を借りて、何とか刈り込みに取り掛かります。
大きなハサミを両腕を使って動かすのですが、その力が無いので思うように刈れない、これまでは半日で終えていた現場を3日かかって何とか終えるという状態になりました。


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何とか植木の配達をこなす父の後姿。

運び始める前に車の中で「よし!!」と気合を入れ出ていきます。この程度の距離は以前なら、台車など使わずに運んでいた距離です。
咳も出ず、息切れすることもないけれど、常にだるさを感じているようでした。

そして、11月に入ったときに伺った診察で、右胸の胸水が先月より増えます。

先生から、この程度の胸水なら注射器で抜くことも出来ると聞き、父は迷わず抜くことを選びます。
おそらく、1年前のように胸水を抜くことで食欲も気力も戻ることを望んだんだと思います。

父は楽になったと、この日の帰りはいつものように、「オムライスの大。」を注文。
けれど、半分食べたらおなか一杯になっていしまい、それでも久しぶりに良く食べたと嬉しそうでした。

その後もあっという間に調子は悪くなります。
痛み止めは軽い薬と強い薬の両方を服用するようになり、食欲は再び減り、店番にはほとんど立たず、人に呼ばれた時だけ外に出るといった様子でした。


服用を始めた頃は、栄養ドリンクも痛み止めの薬も、私には出来るだけバレないように隠して黙って飲んでいました。当初私は、それを気付けなかったし、父がそうしないといけない環境に自分がしていたことを、とても申し訳なく思います。

整体師として私は、「どう言うたらいいんか‥痛痒いねん。」と表現する父の痛みを取ってあげることも出来ず、今までの整体師としての私の経験では何にもできませんでした。


師匠に、どうするべきなのかを伺いやっと自分がしていることが、父の体が求めていないことだと解る、といった状況が続きました。

なんとかしなければと思って父に触る私の手は、丹足する足は、父の癌を思い遣るにはほど遠く、父の体を痛めつけ何の効力も無いものになっていたかもしれない。

この状況になっても、父に自分の考えを押し付け、甘えていた‥とは今になって思う事。
当時は気付くはずがありません。

師匠に、「さすってあげるだけでも違うから。」と言っていただき、さすって痛みが楽になるときは痛み止めをなるべく飲まないように頑張ろうと、父と話します。特にうずくのは腰…腎臓の辺りでした。
強い方のお薬は胃への負担が相当なので、同時に胃薬を服用します。
胃は肺のすぐ傍にある、だから肺への影響を考え、なるべくお薬を減らそうと考えたのです。

昼間、私が仕事に行っている間は母がさすり、帰ってきた後から夜中の間は私がさするといった具合に。

「まいちゃん。(私のあだ名)」と父に呼びかけられたら、すぐに起きてさすります。2、3時間ごとにうずくようでした。

夜中に私に何度も声を掛けることに気を使い、こっそりと痛み止めも服用していたようです‥。


ある日父は私に、「この本買って来てくれ。」と新聞に載っていた本を指さします。
すぐに書店に注文し、届いてすぐに目を通すと"抗がん剤治療をせずに癌が治った"という内容で、最終的には"このサプリメントのお陰だ"と多くの体験談が書いてあるサプリメントを紹介したものでした。

父がその話に乗っかる訳は無いと、その本を渡したのですが、読んですぐにその高価なサプリメントを注文したいと母に相談したようです。

それを聞いた私はビックリしました。けれど父から「それが癌に勝てるか、最後に賭ける希望だから。」と言われます。





抗がん剤治療を選ばなかったら、じゃあどうしたら良いのか‥。
私たち人間が癌にかかったとき、抗がん剤治療を選択するのは、選ばなかった場合に他に何をしたらいいのかという情報がほとんど無いからではないでしょうか。

本人にも家族にもその知識が無い。
だから、抗がん剤治療を選択してしまう。


私たちも、抗がん剤を選択しなかったからと言って他に何が出来るのか解らない。


もう、何もできない。
何も出来ることがない‥と何度も恐怖を感じました。
出来ることがないということは、ただ苦しんでいる父を横に見ながら父の死を待つだけという事。

焦るばかりで、どんどん視野が狭くなります。
父が何を思っているのか、どんなことを考えているのか聞く余裕もない。




11月の終わりには、父はほとんど寝たままになります。

11月23日の父と母の結婚記念日。
兄家族が帰ってきますが、ほとんど寝たまま、用意したお寿司も5貫食べるのがやっと。
甥っ子たちが心配しても、体を起こさないでいるのは初めての事でした。





「あのサプリメント、効かへんかったなー‥。」


と言った、あの父の無力感だらけの言葉は、今思い出しても涙が出ます。






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彫り物が得意だった父は、『隣の人間国宝さん』にも認定されたほど。
「ピシッとしたはる」担当の先生にも打出の小づちを彫って、プレゼントしていました。

翌月の診察の時に先生が携帯につけてくれているのを、父はとても嬉しそうに見ていました。




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# by wago-ichi | 2017-01-06 16:42 | 症例・内臓系 | Comments(0)

【連載】抗がん剤治療を選ばなかった父が亡くなるまで-番外編-


④の前に、ちょっと休憩して、今日は父の忘れ形見となったインコのお話を。


うちの、唯一の男となる…

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インコの“サクラ”です。


2015年の年が明け、春がやって来た3月のある日のことです。


「まゆみ、今ペットショップにめっちゃ可愛いヤツおるねんけど、見に行かへんか?」


と。


父はもう欲しい色も決めていて、見に行ったその日に飼うことになりました。


母には相談せずに父は独断で決めていたようです。


父があのとき、なぜサクラを我が家に迎えたのか、自分の死を感じていたのか、こうなることを解っていたのか、今となっては解りません。

けれど、サクラが居ることで母が一人きりになったときも、淋しさはかなり紛れているようです。


サクラは、父の事がすごく好きでした。
今でも、父のように肩幅が大きなお客さんがやって来ると、飛び付いていきます。




毎日毎日、父はサクラに言葉を覚えさせようと、何度も何度も聞かせていました。

父の言葉を口の近くにとまって、一生懸命覚えていたサクラ。

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「ムカシムカシ、アルトコロニオジーサント…」


と、気が向いたときに父から教わった昔話“桃太郎”のはじまりを聞かせてくれます。









癌と言われ抗がん剤を選択しなかった父。

自分の体がこれからどうなっていくのか…。
「お迎えが来たらしがみつけへん。」と言っていた中で、少しづつしたいことが思い通りに出来なくなって行くことを、一つ一つ自分で受け入れて、納得していく作業はどれだけの恐怖だったろうか…。

私たちが、抗がん剤以外にじゃあ出来ることは…??と、模索しながら手探りで向き合った癌のことを、また明日からお話しします。

もうしばらく、お付き合いいただけましたら幸いです。


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# by wago-ichi | 2017-01-05 13:00 | マイプライベート | Comments(0)

【連載】抗がん剤治療を選ばなかった父が亡くなるまで③抗がん剤治療以外の選択


その後、経過良好だった父は胸水を抜くための管を外し、胸に空いた穴を閉じる薬を入れます。順調に傷痕は塞がり、予定よりも早い退院となります。

退院して数日後にはいつもの作業着に袖を通し、

「だいぶ休んでしもて、お客さんに待ってもらってるからな。」

と、仕事に復帰しました。入院生活で筋肉は落ちてしまい体重は10キロほど減りました。
けれど、むしろ動きは軽やかで、心配していた近所の方もお客さんも安心し、また以前と変わらない毎日を取り戻していきました。


食欲もムクムクと湧いてきて、大好きな唐揚げやフライもの。朝のトーストもおやつも、変わらず食べる父。もちろん晩酌のビールも復活。


私が、「病に勝つには食事が大事だから」と言ったところで、家族の言うことはやっぱり一番聞きません‥。

せめて、ビールを麦芽とホップ以外何も添加されていないものを選ぶ事や、使うお野菜やお肉の質を良いものにしたり、献立の工夫を母にしてもらったり‥と何とかマイナーチェンジすることぐらい。
唯一、カップラーメンは食べなくなりました。(それでも、大好物のどん兵衛きつねうどんはやめなかったけど。)

以前のように食べられる事、美味しいと父が喜んでいる事が嬉しかった。
一緒にお酒を飲めることも嬉しかった。やっぱり楽しかった。

元気を取り戻し再び店先に立つ父の姿は、私たちを、そして周りの人を励ましました。

けれど、私たちには常に肺がんの気配がつきまといます。いつまた…、という気持ちは家族みんなどこかに抱えていたように思います。
けれど、肺がんを抱えていても父は何も変わらなかった。父は変わらず「人気者」でした。


病院にはひと月に一度、診察を受けに行きます。レントゲンを撮り、胸水が増えていないかどうか確認をします。
この時の毎月の診察でお世話になったのも、「ピシっとしたはる」と父が言った女医の先生です。

そして、後まで長いお付き合いとなる先生。
この先生のお陰で、私たち家族は‥父の、「畳の上で死にたい」という願いを、叶えられることになるのです。
今の時代にはとてもとても難しい選択です。自宅で亡くなる人の方がはるかに少ないと言います。
病気→入院という流れに逆らえず、病院のベットの上で亡くなられる方がほとんどと聞きます。

自宅で亡くなると「不審死」として扱われるので、警察沙汰となってしまいます。
(私たちは、そのことをこの本で知りました。→『大往生したけりゃ医療とかかわるな』


けれどこのときは、この先どうなるのかはまだ何も知りません。



毎月、病院へは私の定休日である水曜日に父と母と3人で伺い、診察を受け、「池田さん、どうですか?痛みが出たりしていませんか?」の先生の問診に、

「お陰さまでどこも痛ないですわ。食欲もあるし、仕事も出来てます。」


毎回この返答です。

先生は、私たちから精密検査することも断られる、治療も要らないと言われる、医師としてするべきことがない訳です。

やりにくい患者と家族であったと思います。


診察の結果が、「胸水も増えることなく変化なし」だったら、帰りは病院からすぐ近くの洋食屋さんで、瓶ビールを頼んで乾杯。
これが、毎月のお決まりになりました。

お父さんはいつもオムライスの大。

オムライスも大好物だったとは…。


こうして、手術をした2014年9月の末から一年間のあいだ『肺がん。Stage4。』でありながら、健康な人と変わらず、父は毎日を父の人生として過ごします。

「お父さんのこの命は無かった命や。1回死んでたとこやったからおまけの人生や。こんな有り難いことはあらへん(ない)で。」

いつもその気持ちを忘れてへん、とそう言っていました。


「余命4か月」と言われ2015年1月を何事もなく迎えました。

新たな一年が始まり、春がやって来ても父の体は調子良く、家族3人旅行に行ったり、変わらず元気に過ごします。



けれど、この頃から父は不思議なことを言います。

肺がんが原因で起こった胸水”と言われていたのに、自分は癌じゃないと言うのです。

人に聞かれても、もう治ったと…。

私と母は「あれ…?」と思いました。


のちに師匠にその話をしたことがあります。
師匠はこう言ってくださいました。

「お父さんは、解っておられたと思うよ。解ってたけど、周りの人には心配かけないようにそう言ってたんじゃないかな。」


今思うと、癌細胞の宿主である父が癌じゃないと言っているのだから、癌じゃなかったのかも知れない。

確かにその時の父は、仕事に励み、お酒を楽しみ、胸水のたまる気配もなかった。

誰から見ても「癌患者」ではなかったのです。



けれど、少しずつ流れが変わっていきます。



5月のレントゲンでは少し溜まっていた胸水が、6月には減り、何よりだと喜んでいたのですが、8月の暑さの中でこなす刈り込みの仕事に、以前よりペースを落としていると言いながらも、「もうちょっと!」と無理をしたんだと思います。

けれど、父自身もまだ無理がきく自分の体に、不安を感じることもない様子でした。

7月8月と変化が無かった胸水ですが、ちょうど丸1年が経った9月の診察では、少し増えます。


それでも、まだ傷みも何も無い、呼吸もちゃんと正常な数値で出来ている、父は元気であると思ってしまいました。

幼馴染みの居酒屋で、御主人と奥様にそのことを報告し、一年間をこうして無事に過ごせたことを乾杯して、私たちは幸せでした。


その数ヶ月後に父の容態が一変することは、全く予想できないことでした。





(つづく)


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2015年1月。
お正月に父作の福笑いで、甥っ子たちと遊んでいるところ。

みんなでゲラゲラ笑ったお正月の思い出です。





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# by wago-ichi | 2017-01-04 13:00 | 症例・内臓系 | Comments(0)

【連載】抗がん剤治療を選ばなかった父が亡くなるまで②決断の理由



母からの連絡で、「もう無事に手術も済んでるから、仕事終わったら病院に来てね。」と言われ、駆け付けた私に、父が放った第一声は、


「まゆみー。すまんな、ビックリさして。仕事はちゃんと済んだんか??」


そして、こう続けます。

「あのな、担当してくれたお医者さんがママ(父の姉の愛称です)のこと担当してくれた人やったんや。こんな偶然あるねんな。」




父の姉は、同じ商店街で駄菓子屋さんをしていました。
首にコブができたことがきっかけで病院へ診察へ行き、治療を受けたのがこの病院でした。そのコブが癌によるものと解り、放射線治療をし、最後は抗がん剤治療にかかります。
けれど、ママは亡くなりました。それが15年前です。

「癌になったらあっちゅー間(あっと言う間やな)やな。どんどん弱弱しくなっていくママの姿も、おきん(父の妹の相性)と一緒や。」と父は言いました。
更に数年前にも、実の妹も四十代で癌にかかり、抗がん剤治療に取り組みますが、亡くなっていたのです。



ーそして、自分の姉と妹の癌治療を一番そばで見ていたことが、後に父が抗がん剤治療を選ばなかったことに大きく関係してきます。ー


緊急手術と聞いてビックリしたけれど、昨日の父より明らかに元気で、先ほど終えたばかりの手術の実況中継をしてくれる父に、こんなに話しができるの久しぶりだと、とても嬉しかった。

「まゆみ。呼吸すんのがめちゃくちゃ楽やねん!今日までのことが嘘みたいや。」

鼻には酸素ボンベへと繋がる管が挿してあり、そこから適度な酸素の量が出てくるので呼吸が随分楽なようで、肺に管がささっている部分も全然痛くないと笑顔が出る父にホッとしました。


肺を潰している原因となる胸水を抜くには、空気圧の関係があるので、一度には抜けないそうで、2週間ほど入院して徐々に抜いていく、という事でした。
ここで、少しづつ肺が元通り膨らみ、正常に呼吸が出来るようになれば退院できる、と病院から伝えられました。

これが父の、70歳を過ぎて人生初めての入院生活となります。


師匠と紙鳶さんに伝えると、「お父さんが入院されている間は、なるべく会いに行ってあげて。朝は遅い出勤でいいから。」と快く言っていただき、仕事の前後に毎日父に会いに行きました。


会いに行く度、日に日に元気を取り戻していく父。
すぐに酸素の管も邪魔だと外し、行動範囲が広がり病室にはほとんど居ない‥。

いつも居るのは談話室。
お見舞いに来てくれる親戚や父の友人や誰かと必ず話していました。

突然の知らせにびっくりして駆け付けたみんなは、病人らしからぬその元気な父の姿にホッとして、帰りは笑顔でした。


ただ、父の隣には胸水を溜めるタンクが備え付けられています。管がささったままだからどこに行くのもそのタンクと一緒。
そこにどす黒い濁った液体がどんどん溜まっていくこと、それだけが病人。



友「ほんでも、なんでコレ(胸水)がそんなに溜まるんやろなー。」

父「それやで。もう3リットルも俺の体から出て来てんねん。そらそんだけ溜まってたら息も出来んようなるわな。」



満タンになるとタンクを変え、またそこに胸水が溜まっていく。
はじめのどす黒かった父の体液の色は、そのうち綺麗な透き通った黄色に変わって行きます。この頃には排水されるペースも随分とゆっくりになりました。



ビックリするほどの量を、父の胸から排水され続けた胸水。




その胸水の原因こそが、肺がんによるものだったのです。

父が入院してしばらくして、私たち家族が聞かされたこと。母が説明を受けたことを私に伝え、紙を見せてくれました。


そこにはハッキリと、


『肺がん。Stage4。』


と記されていました。




そして、「余命4ヶ月。」「抗がん剤治療を受けた場合、余命1年。」の文字が目に飛び込んできました。

「でもこれは、あくまで予測なんやって。ちゃんと知るためには精密検査を受けなあかんねんて。それで、肺以外にも癌が転移してないか。転移してたらどこにしてるか、それによって手術するとかどの抗がん剤使うかとか変わるらしいから‥。あんたはどう思う?」

と母。

そう言いながらも答えは同じと、私も母も思っていました。





"お父さんがどうしたいか"




父が自分で、自分のしたい決断を堂々と選んでくれると、私たちは何も心配していなかったのです。
そうして、本当はいつでも頼りになり、信じることに不安もなにも感じさせないでくれたことに、今となって気付きます。


父は直接担当の先生から、この説明を受けたと聞きました。
そして、精密検査を断ったことも。



翌朝、病院に行くと、父は談話室で新聞を読んでいました。
大きく全面が窓の談話室は、ホテルからの景色にも負けないほど。朝日が差し込んでとても綺麗で気持ちが良くて、ほとんど病室にいない父の気持ちが解りました。病人でいたくなかったんだろうなー。

父がいつもの席に座っている姿を確認しそばに行くと、若い白衣を着た女性が近づいてきました。


父の担当医の先生でした。
父には担当医師が2人居て、1人は父の姉を担当してくれた方で、もう1人がこの先生だそうです。

初めまして、の言葉も早々に、

「池田さん?やっぱり検査は受けられませんか??」

と。


「先生、いいですわ。検査してもうて悪いとこ解ってしもたら(しまったら)何かしたなりますやろ、それやからいいですわ。」

「またご家族の方とも相談して、検査が必要と思ったらいつでも言って下さい。」と先生は言い、去っていきました。

先生が去った後父は、

「まゆみより若い先生やろ、20代やで。でもピシッとしてはって、言うことは言わはるで。」


それから、父は父の考えを私に伝えました。


「お父さんな、おきんもママも見て来てるやろ。あれから10年以上経って抗がん剤も随分と良くなってる言わはるねん。せやけど、抗がん剤始めた途端にあんなゲッソリ痩せて毛が抜けて、あっという間に寝たきりなって、辛かった思うわ。あんな姿になった自分見られるの‥。あいつら自身は幸せやったんかなーて思うねん。それで、癌が治ったんやったらええけど2人ともすぐに亡くなってしもうてな。それまでも癌は(体の中に)おった訳やろ?せやけど元気にしてたやろ。」


そして、こう続けます。


「お父さんはお迎えが来たら、しがみつかんと逝くて言うてたやろ。癌が勝ったらそれまでや。それがお父さんの寿命や言うことやと思わへん?(精密検査で)調べるいう事は、自分からわざわざココにもアコにも癌があるて解ってしまう言う事やろ?それが解ったら、余計に負けてまいそうや。知らんかったら、なーんもあれへん。こうして、お父さんは元気やて思えるやん。」



この後も、父のこの考えは変わることはありませんでした。



父は、抗がん剤治療を断る以前に、治療を始める準備さえも断っていたのです。

自分のきょうだい達の死を近くで触れていたあの頃から、自分の生き方を考えて来ていたのだと思います。
「抗がん剤は絶対にしない」「お迎えが来たら逝く」と、言った言葉を貫き通しました。



ここから、私たち家族は幸せな1年と2か月を貰います。
同時に、人間一人一人がそう簡単に変わらない事、でもその中で、家族として一緒に生きる事、家族としての関係を、今までと変わらずそれぞれの人生を生きながら築き続けていく事。

その為の試練が、それぞれにあること。




(つづく)

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今朝、母と氏神さんである神社へ。

喪が明けるまでの一年間は鳥居をくぐってはいけないので、久しぶりに参りました。
なぜか我が家は毎年1月3日に参拝。せっかちな父は人混みで並ぶのが嫌だったんだろうなー。。。








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# by wago-ichi | 2017-01-03 19:57 | 症例・内臓系 | Comments(0)

【連載】抗がん剤治療を選ばなかった父が亡くなるまで①事の起こりは‥



今日のように晴れた日でした。


あの朝、お通夜が終わり、夜伽(よとぎ)で兄と一緒に父の棺の前で夜を過ごしたあと、家への道を歩く。
夜が明けてビックリするほど綺麗な空、昇る日は希望に満ちていて、「下向いてんちゃうで。」と父に言われているようでした。。。


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「父の命日」の記事で予告していた通り、今日からお正月連載を始めます。

わごいちはお正月休み中。
今年は今までに無く長いお休みをいただき、師匠も紙鳶さんもそれぞれの良い時間をお過ごしであることと思います。

もちろん私も。
こんな風にゆっくりとお時間をいただけるなら、その中でなにかできないかとこの連載を思い付きました。

年明け前に師匠に話すと、「良いんじゃないかな。池田家にあった大事なことだから、何も口は挟まないよ。君の思うように書いてみたらどう??」と、内容が内容だけにおめでたい真っ最中にどうかと、時期を心配していたのですが、そう言っていただきました。


そうなんです。
沁みったれた話でも暗い話でもない。私たち、池田家に起こった大事なこと。

父は最期まで、自分の生き方を通し、家族や残される人たちのことを考えて生き続けたし、死だけを待つ人生ではなかった。
それを自分で選び続けた父の人生が、もしかしたら同じように癌を抱える人たちの力になれるかもしれない、その可能性が少しでもあるなら‥

ここに書くことが私の仕事の一つだと思います。


読みにくい表現や、言い回しが悪かったりする箇所もあるかと思いますが、お付き合いいただけたら幸いです。






①事の起こりは‥



。。。お通夜は、年の瀬も瀬の12月29日でした。皆明ければおめでたいお正月がやってくると準備しているところ。
この知らせを周りの皆に伝えるのは、何より父が嫌がるだろうと、身内だけの家族葬にするつもりが、どこかから聞いたか近所の方や父の友人、私の友人まで多くの人が最期となる父に会いに来てくれました。

なんせ人望が篤かった父。
"人気者"という言葉がぴったり来る人でした。

下町の商店街の植木屋で、庭も作れば、植木の刈り込みもする。「(庭の木を)丸く切らせたら俺の右に出るもん(者)はおらん。」と自信満々の顔は格好良かった。
更に、毛虫の消毒もやれば家の塀も作る。頼まれたら植木屋以外の仕事であっても何でもする。

この時期なら、お正月の門松作りも得意でした。

トレードマークのキャップをいつも被り、70歳を過ぎても、お客さんからは"にいちゃん"の相性で呼ばれるほど元気でパワフルで、「お父さんほんま歳取らんね-。」と良く言われました。


けれど、今考えると3年前の夏。
この辺りから父の体は異変を感じていたんじゃないかと、今になって思います。

何も気付くことはできずにいたけれど‥。


無敵と思うほど丈夫な体だった父は、明らかに風邪を引いていると周囲が解るほどでも仕事を絶対に休まず、青い顔していても晩酌のビールを飲み、「これ(ビール)飲んだら治んねん。」と言って翌日には本当に治して、こじらすことは滅多と‥、私の記憶にある限りは一度もありませんでした。




だから、3年前の2014年のお盆の頃も気付かなかった。

二人で近所にある父の幼馴染がやっている居酒屋に行ったときに、真夏なのに1杯しかビールを飲まない父に(真夏は5分でジョッキ2杯を空けます)、あれ?と思い調子を聞くと、

「そうやねん。なんや風邪気味かな。お父さんもうこれでいいわ。」

はじめて自らビールを止めておくと言った父に、風邪やのに飲みに来たらあかんやんかー、と言いながらつまみもほとんど食べない姿を見てこんな珍しいこと‥本当に調子悪いんだと、のん気なことを思っていました。

この辺りから、父が咳をしはじめます。
夏風邪を引くなんてやっぱり70歳過ぎたら体も今までのように行かないのかもね、と父に声は掛けても、この頃は仕事がどんどん忙しくなっていく時期、父は休むことも無く、まだまだ残暑の厳しい炎天下の下で、刈り込みや庭の手入れ、毛虫の消毒に追われていました。
タンが絡むような音だった咳はどんどんひどくなり、喉が切れるんじゃないかと思うほどの音のこともあり、これはおかしいと私と母は思い始めました。


もともと薬嫌いで病院嫌いの父は、「寝たら治る、大丈夫や。」と早めに寝るようになりますが、それで治ることはなく、どうしても外せない仕事やこの体の状態でもできる仕事に取り掛かり、一日仕事しては次の一日を寝る、という状態になりました。それが9月の半ば過ぎ。

いつもなら暑さがマシになるこの時期は一番仕事を入れたいとき。
長年のお付き合いとなるお客さんからは、そろそろ来てくれると思う頃なのに連絡が無いからと催促の電話がかかります。

父自身も思う通りにならない自分の体の初めての状態に、かなりイライラしていたと思います。
ちょっと体見ようか?と、声を掛けますが、「ええ(要らない)。ええ。」と返す父。

なんとか店先には立つけれど、少し動くと息切れする自分の体に一層腹立たしさは増すようでした。
不思議なことに、この頃になると咳は全く出ず、その代わりすぐに息切れするようになっていました。


「なんで、こんなすぐに息切れるねんやろ。じっとしてたら何でもないねんで、せやのに(それやのに)動いたら10歩も歩かれへん。10ほど歩いたら目の前が真っ暗になる。しばらくジッとしてたらまた動けるんや。」


そうして、10歩が5歩になり、寝込むようになります。
近くに住む従兄弟が様子を見に来て、病院行こうと言葉を掛けますが首を縦に振ることは無く、「もう治るから、大丈夫や。」と返す父。

同じ姿勢で寝続けることが出来なくなり、仰向けが辛いと言う、横を向いて寝てもしばらくすると逆を向かないと居られなくなります。一体父の体に何が起こっているのか‥????
痛くしないから撫でるだけ、と肋骨下部を触っている時、「アカン。しんどい。体勢変えるわ。」と逆を向こうとする父の肋骨の中で、「ザザザーーーー‥‥」と砂が落ちるような感触を手のひらに受けた‥あの感じは今も忘れられません。



その数日後の朝、従兄弟の言葉に観念して「病院行ってくる。」とご近所さんの個人開業の診療所へ、父は自分で自転車をこいで向かったそうです。


診察室に通されるなり、『池田さん!!!こんなんでよく自分で自転車で来はりましたね!!!すぐ手術しないと‥!大きい病院に搬送するのに救急車呼びますから!!!!』と言われ、

「はあ??救急車‥??何を言うてるんや。」



と、意識朦朧(もうろう)とする中で、父は思ったそうです。


救急搬送された先の病院で、すぐに手術室に通され肋骨の骨と骨の間にブスッ!と突かれ管を入れられます。
父の胸の中では、漏れだした体液が充満し、呼吸をしても息の入る隙間が無いほどにまで両肺ともが潰れていたそうです。


一歩遅かったら、生きていることはできなかっただろうと、手術を担当した医師の方から、後に言われました。




(つづく)




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大阪のおなか揉み整体院「わごいち」での日々。おなか元気レシピも時々アップ!
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