水俣という場所
2016年 04月 09日
今回の研修の旅、水俣で私が感じた事。
「納得がいかない」
です。
誰がこの地を選んで生まれたのでしょうか。
誰が好きで水俣湾を汚すんでしょうか。
誰が水俣病であることを納得するんでしょうか。
歴史の中で過去にあったことを抱えたまま、人々から忘れられるように水俣の土地はあります。
あまりに透明な海に、真っ青で純度の高い海に目を奪われ、こんなに綺麗な海を持ちながら実際に水俣を見て触れるまで、全く目にする機会は無かったのです。
社会で習う公害によって発生した水俣の悲劇にグレーのイメージはいっぱいでした。
今回、水俣湾で漁師をされている杉本肇さんに水俣をご案内いただきました。
杉本さんにお会いするのは、恐かったです。
スマートホンや、今すごく便利になっているその文明の恩恵にどっぷりと浸かり生きている私に、歴史の中で高度経済成長時にプラスチック製造に使われる水銀の一部が化学反応を起こして有毒であるメチル水銀に変化し、湾に排水となって大量に流し続けられた土地で生きている人々に、何の犠牲も払っていない私が足を踏み入れていいかどうか躊躇したのが本音です。
はじめにご案内下さったエコパークの綺麗さに違和感を覚え、仕方なしに立っているような「水俣湾埋立地」の看板に納得が行かない。
ここで起こった真実が見えない。
それはこの慰霊碑を見ても同じことを感じました。
「水俣病慰霊の碑」
この碑じゃこの歴史の中、必死に死ぬ思いで生きた人々の何も伝わらない。
この埋め立地の下に水俣病の人が眠っている訳じゃない。
みんながそれぞれ痛みに苦しみ、変わり続ける自分の体に恐怖しそれでも生き抜いた人の生きた人生がある。
その重さをその辛さを見据えるように立つ野仏。
海を見るようにしてたくさんの石で彫られた野仏がいました。
水俣病の人たちが彫刻家の人に習い、自由のきかない手で彫られた仏様だそうです。
「これからの未来もこの水俣の海に起こったことを見続けます。」
という人々の覚悟を背負い、この野仏さんは立っています。
小児性水俣病の人が亡くなったからといって終わることなのでしょうか。
胎児性水俣病の人が亡くなったからといって終わることなのでしょうか。
この翌日に訪れた「明水園」でも感じたことです。
重度の水俣病患者を受け入れる療養介護施設。この施設に入っている人は一生をここで過ごします。
「一度入られたら出られるのは亡くなったときです、今ではもう家族がお亡くなりになっている方が多いですから。」とお話くださった事務局長の渕上さん。
設備の整った中で行事を通しての人とふれ合い、一生を過ごす。
施設の中ですれ違った水俣病患者の方の瞳を見て、ここで終える一生を納得していらっしゃるのかどうかと疑問は残りました。
このまま、みんないなくなったから「はい、おしまい。」と歴史から綺麗に無くなることじゃない。
けれど、誰にまでどこにまで忘れ去られることなく水俣の歴史が伝わっているのでしょうか。
その焦燥感は「水俣資料館」を見せていただいても感じたことでした。
恐怖と申し訳なさに資料として飾られているたくさんの写真を見る度、涙が出ました。
そのことに偽善を感じ必死に堪えました。
私が泣いて何を救えるのか。悲しんで何が生まれるのか。
何にも消えない何にも返せない、過去は何も変わらない。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…
白黒の写真に何度もつぶやきました。それでは何の役にも立たないと解っていながら、それでも。
泣いても誰も助けてくれないこと、何にもならないことをこの水俣病の人たちは、嫌というほど経験しています。
それはどんなに小さい子どもであっても、みんな懸命に生きるしかなかったんです。
そのことを杉本さんのお母様も水俣病の「語り部」としてみんなに聞かせて下さっていました。
お母様がお亡くなりになり、今を生きている息子である杉本さんをはじめ「語り部」の方たちが、直に自分たちの声で自分たちの経験を、水俣に起こった真実を、今一生懸命に生きている人々の姿を伝えられています。
“やうちブラザーズ”としても活動をされている杉本さん。
「やうち(家内)」=「親戚」により構成されているバンドで、もともとは宴会芸からはじまったそうです。「あるもので楽しくやろうと思って。水俣の土地、故郷を好きになり自慢できるものを増やしてあげたい。」との思いで、演奏と歌で人々を笑顔にし元気になってもらおうと水俣の日常の生活を歌に乗せ、呼ばれるところならどこにでも、芸をやりに行かれているそうです。(気になる方はこちら←)
ファンも多くいらっしゃいます。
この土地を見放さず捨てず、ここで起こった出来事を伝えていくことで未来に同じことを繰り返さないように、恨みと悲しみで一杯にしないように、一生懸命に生きている人たちが確かに居ると知りました。
一度水俣を離れ東京で生活をしていた杉本さんが再び水俣に帰ってきてでも伝えたかったこと、より一層歴史の中で置いて行かれつつある水俣を、伝わりきらぬもどかしさを、抱えられているような海の深さに似た瞳を思い出します。
山の水が海に流れることで栄養豊富な海となり生き物たちがたくさん住む豊穣の海となる、これが水俣湾が豊かである秘密だと教えてくださいました。
お互いにつながりあっている自然と、多く水俣病の被害が出た“海の人”と被害が少なかった“山の人”たちが手を取り合えなかったこと。
感じた違和感を納得できない現実を、理解するのは時間がかかる。
ここからも全部を納得することなく、納得できないものごとも抱えながら水俣は歩みを続けていく。
「生きる為には何でもしないといけなかったですからね。」
杉本さんのおっしゃった言葉が、いつまでも熱くおなかの中に残っています。
闇に蓋をして無かったことにして綺麗にしてしまうことは簡単なこと、その為に莫大なお金を使い多くの犠牲を払った、けれどそれで水俣が救われる訳じゃない。
私たちがしたことが許される訳じゃない。
けれど今、目の前の自然を私たちは見ることができる。
今、まさに自然の恩恵を受けている。
美味しい豊穣の海の魚たちと栄養豊富な土が育てる野菜たちは、私の体の一部になっている。
その記憶を、確かに残る記憶を、蓋をせず向き合い続けないといけない。
水俣の地をこの目で見て、肌で触れて、足で踏みしめたのだから。
この度、ご厚意で丸一日を使って水俣をご案内いただいた杉本肇様、貴重な時間をいただいた明水園の事務局長・渕上茂樹様、施設の皆様に心から感謝しています。
「納得がいかない」
です。
誰がこの地を選んで生まれたのでしょうか。
誰が好きで水俣湾を汚すんでしょうか。
誰が水俣病であることを納得するんでしょうか。
歴史の中で過去にあったことを抱えたまま、人々から忘れられるように水俣の土地はあります。
あまりに透明な海に、真っ青で純度の高い海に目を奪われ、こんなに綺麗な海を持ちながら実際に水俣を見て触れるまで、全く目にする機会は無かったのです。
社会で習う公害によって発生した水俣の悲劇にグレーのイメージはいっぱいでした。
今回、水俣湾で漁師をされている杉本肇さんに水俣をご案内いただきました。
杉本さんにお会いするのは、恐かったです。
スマートホンや、今すごく便利になっているその文明の恩恵にどっぷりと浸かり生きている私に、歴史の中で高度経済成長時にプラスチック製造に使われる水銀の一部が化学反応を起こして有毒であるメチル水銀に変化し、湾に排水となって大量に流し続けられた土地で生きている人々に、何の犠牲も払っていない私が足を踏み入れていいかどうか躊躇したのが本音です。
はじめにご案内下さったエコパークの綺麗さに違和感を覚え、仕方なしに立っているような「水俣湾埋立地」の看板に納得が行かない。
ここで起こった真実が見えない。
それはこの慰霊碑を見ても同じことを感じました。
「水俣病慰霊の碑」
この碑じゃこの歴史の中、必死に死ぬ思いで生きた人々の何も伝わらない。
この埋め立地の下に水俣病の人が眠っている訳じゃない。
みんながそれぞれ痛みに苦しみ、変わり続ける自分の体に恐怖しそれでも生き抜いた人の生きた人生がある。
その重さをその辛さを見据えるように立つ野仏。
海を見るようにしてたくさんの石で彫られた野仏がいました。
水俣病の人たちが彫刻家の人に習い、自由のきかない手で彫られた仏様だそうです。
「これからの未来もこの水俣の海に起こったことを見続けます。」
という人々の覚悟を背負い、この野仏さんは立っています。
小児性水俣病の人が亡くなったからといって終わることなのでしょうか。
胎児性水俣病の人が亡くなったからといって終わることなのでしょうか。
この翌日に訪れた「明水園」でも感じたことです。
重度の水俣病患者を受け入れる療養介護施設。この施設に入っている人は一生をここで過ごします。
「一度入られたら出られるのは亡くなったときです、今ではもう家族がお亡くなりになっている方が多いですから。」とお話くださった事務局長の渕上さん。
設備の整った中で行事を通しての人とふれ合い、一生を過ごす。
施設の中ですれ違った水俣病患者の方の瞳を見て、ここで終える一生を納得していらっしゃるのかどうかと疑問は残りました。
このまま、みんないなくなったから「はい、おしまい。」と歴史から綺麗に無くなることじゃない。
けれど、誰にまでどこにまで忘れ去られることなく水俣の歴史が伝わっているのでしょうか。
その焦燥感は「水俣資料館」を見せていただいても感じたことでした。
恐怖と申し訳なさに資料として飾られているたくさんの写真を見る度、涙が出ました。
そのことに偽善を感じ必死に堪えました。
私が泣いて何を救えるのか。悲しんで何が生まれるのか。
何にも消えない何にも返せない、過去は何も変わらない。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…
白黒の写真に何度もつぶやきました。それでは何の役にも立たないと解っていながら、それでも。
泣いても誰も助けてくれないこと、何にもならないことをこの水俣病の人たちは、嫌というほど経験しています。
それはどんなに小さい子どもであっても、みんな懸命に生きるしかなかったんです。
そのことを杉本さんのお母様も水俣病の「語り部」としてみんなに聞かせて下さっていました。
お母様がお亡くなりになり、今を生きている息子である杉本さんをはじめ「語り部」の方たちが、直に自分たちの声で自分たちの経験を、水俣に起こった真実を、今一生懸命に生きている人々の姿を伝えられています。
“やうちブラザーズ”としても活動をされている杉本さん。
「やうち(家内)」=「親戚」により構成されているバンドで、もともとは宴会芸からはじまったそうです。「あるもので楽しくやろうと思って。水俣の土地、故郷を好きになり自慢できるものを増やしてあげたい。」との思いで、演奏と歌で人々を笑顔にし元気になってもらおうと水俣の日常の生活を歌に乗せ、呼ばれるところならどこにでも、芸をやりに行かれているそうです。(気になる方はこちら←)
ファンも多くいらっしゃいます。
この土地を見放さず捨てず、ここで起こった出来事を伝えていくことで未来に同じことを繰り返さないように、恨みと悲しみで一杯にしないように、一生懸命に生きている人たちが確かに居ると知りました。
一度水俣を離れ東京で生活をしていた杉本さんが再び水俣に帰ってきてでも伝えたかったこと、より一層歴史の中で置いて行かれつつある水俣を、伝わりきらぬもどかしさを、抱えられているような海の深さに似た瞳を思い出します。
お互いにつながりあっている自然と、多く水俣病の被害が出た“海の人”と被害が少なかった“山の人”たちが手を取り合えなかったこと。
感じた違和感を納得できない現実を、理解するのは時間がかかる。
ここからも全部を納得することなく、納得できないものごとも抱えながら水俣は歩みを続けていく。
「生きる為には何でもしないといけなかったですからね。」
杉本さんのおっしゃった言葉が、いつまでも熱くおなかの中に残っています。
闇に蓋をして無かったことにして綺麗にしてしまうことは簡単なこと、その為に莫大なお金を使い多くの犠牲を払った、けれどそれで水俣が救われる訳じゃない。
私たちがしたことが許される訳じゃない。
けれど今、目の前の自然を私たちは見ることができる。
美味しい豊穣の海の魚たちと栄養豊富な土が育てる野菜たちは、私の体の一部になっている。
その記憶を、確かに残る記憶を、蓋をせず向き合い続けないといけない。
水俣の地をこの目で見て、肌で触れて、足で踏みしめたのだから。
この度、ご厚意で丸一日を使って水俣をご案内いただいた杉本肇様、貴重な時間をいただいた明水園の事務局長・渕上茂樹様、施設の皆様に心から感謝しています。
池田参尽
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by wago-ichi
| 2016-04-09 18:40
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